伯母が亡くなった。
立て続けに従姉妹の夫が亡くなった。
従姉妹の夫は64歳、子供の結婚や孫も見られず不本意の急な病死だった。
最後に会ったのはいつだろう。コロナが蔓延してからは会ってないから確実に3年は会っていない。仕事の合間やふとした瞬間にあれこれ2人のことを考えてしまう。
私自身は80歳過ぎまで当然のごとく生きるつもりでいる。60歳で亡くなることは想定していない。60歳で死ぬと分かったら狼狽するのかもしれない。あれやこれをやっておけばよかったと後悔するのかもしれない。だとしたらなぜ明日、明後日もそのような生活を続けるのか。
健康で平和な生活が来年も続くことがこれほどまでに期待できないのが現実だとしたら私のしたいことは何なのだろう。
友人が離婚した。元同僚が適応障害で休職から退職した。1年後にそうなるとわかっていたら1年前に違うことをしていただろうか。
興味関心すら持たれずに日々、死んでいくロシア兵を思う。徴兵され、国に命じられ、ウクライナ兵の死ほど同情もされない。むしろ数多の西側諸国に喜ばれる死。遠すぎて実感は湧かないけれども、現在進行形の現実だ。
保ちたい均衡や安寧はある。独身ならば後先を考えずに好き勝手できるが、私には取りたいバランスがある。家族がいるからあれこれが出来ないと言うつもりはない。腹を括り、少し投げやりになれば何だってできるがそうはしたくない。バランスを保ちつつ、少しでも多く自分のやりたいことを増やしたい。
写真と関係ないことを書き連ねているようだが、生と死の曖昧な冬虫夏草というテーマは随分としっくりとくる、飽くことのない題材だと思っている。
換金したいわけでもないし愛着のある作品を売ることに抵抗があった。気に入った作品は手元に置きたい。しかし量を作ることで表現は上達していく。選ばれたら寂しさとともに手放そうと思う。手放したあの作品のさらに良いものを作ろうと奮起しよう。そうやって再燃機関を稼働していきたい。