マドリッドの美術館といえばプラド美術館。そしてピカソのゲルニカが見られるソフィア王妃芸術センター。旅程が短いとその両方かどちらかしか行けず、ティッセンボルネミッサ美術館に行く人は少ないのではないか。
1920年代から二代にわたって収集された世界屈指のプライベートコレクション。
最近行った美術館で一番良かったかもしれない。時差ボケで眠かったが作品を見て一気に目が覚めた。
おそらく、美術史的な価値よりも鑑賞価値に重きを置いたコレクションに思う。有名な画家の作品ばかりがずらずらと並び素人にはイマイチ良さがわからない作品も多かったりする美術館は多い。
こちらは本当に1400年代の絵かと目を疑う傑作。
ここの美術館はとある表現手法を新たに生み出した美術史上で重要な画家ではなくとも、その表現手法の到達点としての素晴らしい作品が多い。それが鑑賞価値を基準にしていると感じる理由だ。
ジュゼッペ・マリア・クレスピの作品が場の空気を支配する一画。
写真にすると感じられにくいが何やらすごいオーラのようなものを感じた。
淡いサーモンピンクのような壁面に統一された美術館は広大だった。
ミヒール・スウェールツなんて知らなかった。ローマ教皇の一族や裕福な商人をパトロンとして風俗画を多く描いていたらしい。
東洋への宣教を志し修行して宣教団に加わるがシリアで脱落し、インドの修道院で45歳で亡くなったとのこと。
蝋燭の灯りで照らされた陰影を描くのがブームになった時代の一枚。
足がしばらく止まった作品。15世紀の絵画ってもっとパースやデッサンが狂った平面的な絵が多いと思っていたのだが
どういうことなのだろう。時空間を越えてらっしゃる写実性。私が見てきた1470年代の絵画にこんな写実的で迫真表現の絵はなかった。
泣く子も黙るカラヴァッジオすごいわ、カラヴァッジオ。やっぱり超絶巧いカラヴァッジオ。伊達政宗と同年代の1571年生まれの画家と聞くとその時代の日本画の平面的な表現とは別次元さが際立つ。方向性の違いとはいえ、だ。
「アレクサンドリアの聖カトリーナ」。端正で精緻な作品を好むコレクションの傾向が如実に出ている作品。
こちらもカラヴァッジオ。
もう圧巻。
昔も猫を溺愛する貴族はいた。単に可愛い猫が1対描かれているだけといえばそれまでなのだけれども
額縁自体も芸術的で非対称な額縁を最初から左右に並べて左右対称に飾ることが前提となっているかのよう。
猫の間を作ったら飾りたいよね、大金出しても描かせたいよね、あの有名な画家に描かせたと自慢したいよね、という貴族パトロンの物欲、所有欲、顕示欲のさまざまな形を展示しているようでもある。
どこぞの家族の婦人をダイアナに見立てて描いた肖像画。
縁もゆかりもないどこぞの貴族のご老人を描いた肖像画は多いがそういうものを買って飾りたいとは思わないだろうけれども、こちらは単なる美人画として飾りたくなるような作品。
エドガー・ドガの「グリーンダンサー」もあった。当時のバレエダンサーは貧しい娘が多く貴族の愛人候補品評会だった現実を多くのドガの絵では裕福そうなバレエダンサーにまじってハゲオヤジを描くことで伝えている。そんな社会性メッセージも反権威主義で反官展の立場だったことも常に語られるコンテキストだけれどもグリーンダンサーはそんな要素はなく単にバレエダンサーの美しさが感じられるだけの作品。
美術業界の人たちが蘊蓄を語るための絵画よりも単に作家の描きたかった美しいものを鑑賞したいのだよね。
ロートレックの雰囲気は際立っている。ああ、ロートレックっぽいな。作品説明を読んでやはりロートレックか。巨匠の作でもこんな絵ならば飾りたいと思わせるような作品ばかりが並ぶ。
そういや、ダリもあったな。
15世紀から18世紀の作品の充実度が高く、19世紀、20世紀の巨匠も含めた飾りたくなるような美麗な作品が多いのでとても楽しめた。スペイン人ばかりで美術館は混雑しており、アジア人観光客はほとんど見かけず彼らはプラドやゲルニカのあるソフィアに行っていると思われる。美術史における重要な画家や表現の新規性よりも、作品としての完成度の高さや鑑賞価値を求めるならティッセンボルネミッサ美術館はとても楽しめるのでお勧めしたい。
「とりあえず有名な作品をたくさん見たい」ではなく「飾りたくなるような美麗で心動かされる絵をたくさん見たい」人にはおすすめ。