無尽蔵に蛇口を捻れば水が出て、スイッチを押せばガスストーブが点く。普段意識しないが輸入した石油や天然ガスに頼って格段に快適な生活をしている。父母が子供の頃は薪で風呂を焚き、米を炊いていた。それを自分で薪を入手して割ってくべて使うとなれば一日のそれなりの時間を割かないといけなくなる。便利になったけどいろんなものが見えんようにもなった。
昔ながらのやりかただと一日に薪をどれだけ使うと風呂に入れるというのが目で感覚的に理解できる。その面倒さ、あるいは過程を見てこそ一片の薪も無駄にはしまいと思うし、日々の糧への感謝の念も生まれる。そういえば、東欧でマイナス20度の寒さの中、大きな豚を屠り、腸の消化物を洗い出し肉を挽いたものを詰めてソーセージを作ったことがあった。寒さに手の感覚がなくなりしんどい思いをして作ったソーセージや肉片も2週間もしたら頂いた分は食べてなくなった。あっというまの寂しさみたいなものを感じたのを覚えている。
豚の断末魔の叫びに惨いものだとは思ったが、豚を食べるのを止めようとは思わなかった。その代わり、肉を食べるときには極たまにあのしんどさを思い出し、食べ残したり無駄にすることには非常に抵抗を感じるようになった。
そういうのを普段から経験していれば食料自給率が40%でありながら食物の4割が廃棄されるという日本のおかしな現状は改善されるのかもしれない。
しかしエコって言うのもよくわからん。気まぐれにエコのような真似事をしていい気になって感覚が麻痺するのも性質が悪いような気もする。半端なエコのほうが環境負荷が高い例なんて幾らでもある。知覚していれば容認されるのかと問われればわからない。何が正しいのかもわからんし、何がエコなのかもわからん。
石油や天然ガスが枯れるか高騰して使えなくなるまで使い続けるのかね。そうなればなったで、昔は幾らでもガスは使えたのに、などと昔の漁師のようなことを言うのかも。何であれ必要なだけ使うようにする。そうすれば捨てるものも少ないし家計にもやさしい。今のところそんな程度でしかわからない。