息子をつれて、周辺を散策した。蒼の山荘の先には河鹿荘という廃業した温泉宿があった。宿の軒先の桜が見事で輝いて見えたのでふらふらと誘い込まれてしまった。
玄関先に黒い塊。まだ体温がありそうな毛の塊は土竜だった。裏返してみると蛆も沸いておらず、やはり新しいことがわかる。あまりに細い鼻に小さなげっ歯類特有の出っ歯。手足の位置を見ても、これでなぜ地中を掘りやすいのかよくわからない。
玄関のガラス戸から中を覗くと、立派な牡鹿の成獣の剥製が立っていた。今日が臨時休業日だと言われればそう思えてしまうほどに玄関は清掃されていて、廃業していることが俄かに信じがたい。しかし二階を見上げると落ちかけている天井や破れた障子が目に入り、やはり潰れてしまったことが納得できる。裏手に回ると、見事なまでに納屋が崩れていた。それら廃墟化しつつある建物の合間に聳える桜の樹が花びらを風に飛ばしていて、逆光越しのそれらはキラキラとしていた。
朽ちていく人工物に生える苔も美しいが、朽ちていく無機物と対称的に花びらを散らす桜も良い。
後でインターネットで調べると、室数11、収容人数は50人と蒼の山荘よりも大きく、2007年までは少なくとも営業していたようだ。長らく値段を上げておらず、まだ存在している宿のホームページ上では一泊二食8900円となっている。登山客に対応して6時から朝食して重宝され、優しくて気さくな女将は多くの客に愛されていたらしい。いま、女将はどこで何をされているのだろうか。
吊り橋を渡った先にあるかなり昔に廃業して宿名すら読めなくなった建物は縁側を見ると大きな狸が我が家のように居座っていた。
箱根や伊豆の隆盛と比較するとせつなくなる。バブルの頃にわれもわれもと宿が増え、潮が引くように客足が去って行った中で粘り続けたが改修が必要な段階で断念されたのだろうか。
不本意ながら廃業された方たちには申し訳ないが、ガイドブックに広告を載せているような賑わいのある温泉もそれはそれで良いが、寂れ果てた温泉街にも何か感じられるものがあるようで、不謹慎ながらここはここで来てよかったと思わせる何かがあった。