荒れた岩間寺


折角の週末。千本の梅が綺麗な寿長生の郷というところへ車で出掛けることにし、その前に西国三十三ヶ所の観音寺の一つ、岩間寺に寄った。


最寄り駅を聞かれても困ってしまうような山奥で、エンジンを唸らせて登らないといけない。誰がこんな辺鄙なところへ来るのやらと訝しむが、いざ辿り着いてみると駐車場には思いの外たくさんの車が停まっている。流石は三十三ヶ所の巡礼寺、と熱気を感じる。


いざ入山しようと車を降りると、異様な雰囲気に気付く。岩間寺住職を批判する立て看板の数々。何か揉め事に巻き込まれているらしい。こちらで入山料を払って下さいと声を掛けられたその声色にも険を感じ、あまり気分が良くなかった。


御参りをするも、特に心動かされる文化財も無し。ここには松尾芭蕉が古池や蛙飛び込む水の音、と詠んだ縁の古池があるそうでそれを探して歩き回ったが見つからず、まさか観音堂前のしょぼくれた池ではないかと引き返すと、悪い予感はあたり、比較的新しい石碑が殺風景で変哲もない池の前に建っていた。直感的に嘘臭さを感じた。


御参りを済まし、御朱印をもらうことにした。私は御朱印に信仰的意味合いは求めておらず、一重にそのデザイン性とたまに出逢える流れるような筆跡の美しさに期待してもらって回る。スタンプラリーだと謂われても言い返せない。しかし、ここの御朱印は酷いものだった。筆を鉛筆のように傾けて書き、筆先は揃わず汚く掠れる。さらにしくじった箇所を二度書きして誤魔化すという雑さ。御朱印を授ける人が僧侶でないといけないとも達筆でなければならないとも言わない。字が下手なのが嫌なのではなく、雑なのが嫌なのだ。不思議なもので心が入っていない筆跡はなんとも無様だった。


直筆には心がけが如実に表れると再確認した。たとえ悪筆だろうと丁寧に書いたそれは、その心積もりが筆跡に現れる。字は下手なのだがいつも心のこもった年賀状や手紙をくれる友人を思い出す。不思議と下手な人の丁寧な筆跡も達筆な人の整ってはいるが雑な筆跡も判るときが多々ある。
そして達筆な人が心を砕いて書くそれは、なんとも見事で何度も見返してしまうほど美しかったりする。欲しいのはそんな御朱印だ。経験上、それはにこやかに参拝御苦労様でしたと声をかけて下さるような女性に多い。御礼状と年賀状は直筆で書こうと改めて思った次第。


境内はどことなく荒れていた。まだ木々も芽吹いておらず、冬の装いだからか。