八日目の蝉という小説があった。映画化もされた。
「蝉って、何年も土の中にいるのに、地上に出て七日で死んじゃうんだって。かわいそうだよね」
「そうかな。ほかのどの蝉も七日で死んじゃうなら、別に悲しくないよ。
もし自分だけ、八日目まで生きて、仲間がいなかったらその方が悲しいね」
「八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。私がこの子に色んなものを見せてあげる」
初日の蝉の亡骸を拾った。八日目の蝉は孤独を味わったかもしれないし、伴侶と巡り合い思いを遂げたかもしれないし、その先も見られたかもしれない。
初日の蝉は何を見たのだろう。4年近くを地中で過ごし、繁殖のために地上へと出た。脱皮をし、翅を広げ、飛び立つ筈が何かがうまくいかなかった。
周りはすでに伴侶を求めて気が狂ったかのように鳴く蝉時雨。目の前を飛び交い、はたまた目の前で交尾をしている蝉もいたかもしれない。
さあ、自分の番だ。待ち遠しい。本能が焦らせる。駆り立てる。早く、あの木に飛んでいきたい。
しかし何かがうまくいかない。
どうやら駄目そうだ。自分に何ができる。
何故、自分なのか。
これ以上、体が出ていかない。それにも関わらず、真っ白な体だけは正常通り、黒く変色し硬化していく。まだ翅さえ伸ばせていないのに。
先に命が止まったのならば、何も見なかったのならばまだ救いだ。脱皮できずにしばらく生きていたのならば、いたたまれない。
目の前に絶望があるときに「最後まで諦めるな」というのは救いなのか、より苦しめるだけなのか。不条理や不遇を達観して受け止めること、折合いをつけること、諦めること。これらは本質的にどう違うのか。
もうすぐそこまできて、目の前にして、全てを断ち切られる無念。中国の人は日本の公園で蝉の幼虫を穴から掘り出して捕まえて素揚げにして食べるらしい。地上を見ることなく死んだ同胞よりも、例え叶わずとも僅かに地上の世界を見られただけ幸せだと思えるのだろうか。
もう一度、蝉の脱け殻の陶器鉢を作ろうと思った。