理想的な陶芸家像 高根沢三郎

益子のカフェ「1 1/2」で見かけてなんとも魅力に嵌まってしまった珈琲カップとソーサー。マスターにこの人の作品を買える店はないかと聞いたところ、民藝店ましこを紹介してもらった。

 

作者は高根沢三郎さんという方で、農家に婿入りし、半農半陶の生活を送るという。

 

半農半陶と聞いて余談になるが、直火からガス、土瓶から金属薬缶へと生活様式が変わった際や世界恐慌など幾度の危機を益子の窯元が生き延びられたのは家族経営の半農半陶が多かったからだと知った。昨今のコロナ禍でも従業員を雇って経営しているようなところほど廃業は多く、家族経営で家族だけで切り盛りしているようなところは耐えられているという話も聞く。借金は資産だと嘯いて資本にレバレッジを効かせる商いは好調時には富を築けるが、危機には弱いのかもな。そして危機は誰にも想定できない形で定期的に到来するのは歴史的事実。

 

話を元に戻すと、この高根沢三郎さん、半農半陶なわけで専業ではないので作られる器の数が少ない。

さらに作風の幅が広く、これも同じ人の手によるものか、と驚くぐらい。そしてどこから着想を得たのかわからないような唯一無二の模様を描いたりする。私が嵌まったのもこれだ。彼の作品ならどれも好きなわけではなく、一部に強烈に惹きつける器がある。

 

陶器販売店の店主曰く、ファンも多いのだがなかなか作品が納入されないという。しかも、似た物が欲しいという客の強い要望を伝えて次回もこんな風な器を作って欲しいと依頼しても、想像と異なる器が納入されることも多いそうだ。要望を無視されたのか、作者の中で要望を解釈して応えたのかわからないぐらいに。

 

彼を知るほどに興味が湧いてくる。彼の父親は加茂田章二なのだという。多くの人が鬼才、天才という冠をつける益子の陶芸家。人間国宝である浜田庄司や島岡達三よりも、個性の強さから魅せられる収集家も多いとも聞く。そんな陶芸家の息子として語られることを高根沢三郎さんはとても嫌うのだという。長男は陶芸家となり、次男は画家、工芸作家となり、三男として農家に婿入りした。俺は陶芸家ではない。農家の片手間に趣味で好きな陶器を作っているだけだ、と。

 

親に高名な芸術家を持つ子供は少なからず苦しむ。親の劣化コピーに留まるのか、親と同じ高みに達するのか、独自の境地を開拓するのか。当たり前だが、親も故人となっては新しい作品は生まれない。親は高名な芸術家としての地位と名声を確立するだけあってその作風は魅力に溢れている。息子や娘が親の作風を受け継ぎ、似た作品を作れるようになってくれると親の作品のファンにとっては嬉しい。上村淳之にとっての上村松園、金城敏男にとっての金城次郎、濱田晋作、篤哉にとっての濱田庄司、デビッド・リーチにとってのバーナード・リーチ。皆、作風に親の面影が色濃いように思う。

 

高根沢三郎さんはどうやら、違う。親の作風を真似る気配はない。

 

鬼才加守田章二の才能の片鱗を受け継ぎ、なおかつ副業として作りたいものを作りたいように自由気ままに作っているところにその魅力があるのだろう。

 

いつ商品が入荷できるかわからない。希望してもその作品を作ってはもらえない。でも新作も魅力的。表の姿は農家。

 

片手間で作陶なんて全身全霊で作陶に向き合っていないなどと言われるのだろうか。それは献身や犠牲の多寡で物事を評価する、嫌いな考え方だ。芸術分野は実力主義に尽きるべきだろう。何も背景を知らない単なる陶芸好きの素人の私に「この作品はどこで買えるのか」「誰の作品か」と問わせた事実が高根沢三郎さんの実力だ。彼の作品を待ち焦がれている販売店と客がいるのも事実だ。私に評価されることに価値がないとしても、プロからの芸術としての評価が異なるとしても。

 

私に加守田章二から受け継いだ才能も、高根沢三郎の感性も技量もないけれども、「彼、本業は勤め人だから作品は少ないんですよねー。しかも人気の作品をまた作ってくれと言っても作ってくれないし。でも良いんですよねー。入荷したらお知らせしますよ。」

そんな風に言われて、取り扱ってもらえる店があるのが理想的だな。

 

ちなみにGoogleで検索して表示されるヤフオクに出展された高根沢三郎作品は私が惹かれた類いではない。ネットでも全然彼の作品の画像が出てこないのがもどかしい。